金 九( 韓国語:, きん きゅう<ref name="NihonYomi" />、キム・グ、1876年8月29日 - 1949年6月26日)は、朝鮮の指導者・教育家, 韓国の政治家・右翼運動家。本名は金昌洙(、キム・チャンス)、改名して(キム・グ、漢字表記は金龜または金九<ref>出典: ]及び[http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/MOK/CONVIEW.jsp?type=MGO&ptype=list&subtype=03&lclass=38&mclass=&sclass=&ntype=hj&cn=GK17986_00
</ref>)、幼名は昌巖(、チャンアム)、字(あざな)は蓮上(、ヨンサン)、号は蓮下(、ヨンハ、ヨナ)のちに白凡(、ペクポム)、法名は圓宗(、ウォンジョン)、還俗して斗來(、トゥレ)<ref name="daumpedia" /> <ref name="naverpedia" />。
大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、首相代理、国務領(首相)などを務めた。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席である。
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* 1876年 8月 黄海道海州に産まれる。彼の先祖は朝鮮時代中期の朝鮮国の首相金自点である。
* 1896年 鴟河浦義挙。食事を注文した時に女性の給仕が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨し[鴟河浦義挙に関する取調べ調書『土田譲亮撃殺の件 取調べ調書』]、日帝・日本人への懲罰として閔妃殺害にはなんら関係がない日本人・土田譲亮を殺害した。殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、さらにのち、脱獄する。
; アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500より。
:* (以下は抜粋)長崎縣平民土田譲亮なる者朝鮮人1名(平安道龍岡居住林学吉二十歳)を隨へ、黄州より帰仁の為め鎮南浦へ向ふの途次、黄州十二浦より韓船一隻を僦ひ大同江を下り、3月8日夜治下浦に泊し、翌9日午前3時頃同所出帆の用意を了へ、喫飯の為め同所旅宿業李化甫方に到り再び帰船の際、同家の庭前に於て同家宿泊韓人4、5名の為め打殺せられたり。
:* 雇韓人林も亦殺害の難に遭はんとせしも、辛ふじて危険を逃れ、同12日夜平壌に来り同所駐留平原警部に右の顛末を訴へたるを以て、同警部は巡査2名、巡検5名を率ひて同15日現場に臨み検視を行はんとせしに、右旅宿主人は警部等の到を聞きて逃走し、殺害者の屍体は既に河中に投棄したるを以て検死することを得ず。
; 自叙伝では次のように記している。
:* 倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…(『白凡逸志』1947年、日本語版1973年、平凡社、79ページ)
* 1899年 黄海道各地に学校設立運動などを行う。
* 1919年3月 三・一独立運動が失敗に終わる
* 1919年4月 上海に亡命し大韓民国臨時政府の設立に参加、第3、4期臨時政府で内務大臣[國務領]を務める。なお、第1、2期臨時政府大統領は李承晩だった。
* 1921年ソ連の政治資金が臨時政府に上納されていないという理由で、青年たちに韓国人の共産主義者たちの暗殺を指示する。
* 1922年10月 上海で呂運亨,李裕弼, 孫貞道などと一緒に韓国労労兵会を組織する。
* 1931年10月 韓人愛国党を組織する。
* 1932年 韓人愛国団の李奉昌が昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などのテロ事件を引き起こす。
* 1940年 重慶に脱出し、大韓民国臨時政府主席に就任、韓国光復軍を組織して蒋介石の中国国民党政府とともに抗日活動を行う。
* 1941年12月9日 大韓民国臨時政府主席 金九と 外務部長趙素昴名で対日宣戦布告 。
* 1945年11月 帰国
* 1945年12月 信託統治反対運動を主導する。
* 1945年12月31日 信託統治反対暴力デモによりアメリカ軍政庁に召喚される。
* 同じ12月 31日、前日の韓民党の党首 宋鎮禹暗殺の容疑で軍司令官に再召喚される。
* 1947年12月韓民党の党首 張?秀を暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚される。
* 1948年3月8日 南北交渉を要請する書簡を北朝鮮に発送する
* 1948年3月12日 金奎植、金昌淑、趙素昂とともに南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表。
* 1949年6月 権力闘争の中で、韓国陸軍砲兵少尉(当時)安斗煕(アン・ドゥヒ)によって狙撃・殺害される。
* 1949年7月 国民葬
1941年12月に日本に対して宣戦布告し、主として武装闘争・本国工作活動によって独立を目指した。
大韓民国臨時政府は承認されなかった。金九が独立した大韓民国の初代大統領になることはなかったが、その後も有力な政治家の一人でありつづけた。
金九は、アメリカ軍政下にある南半部だけでの単独選挙実施に反対し、あくまで南北統一を進めるべきという立場から活動した。この活動は北朝鮮当局からも歓迎されず、反共姿勢を優先する李承晩らとの確執を深めた。1949年6月に安斗煕に暗殺された。
尊敬される人物
抗日独立活動が長期に渡ったことや右翼でありながら反共よりも統一志向に基づく活動をつづけたことに加えて、独立後早くに暗殺されたことも関係してか、南北朝鮮・左右両翼から比較的尊敬されている人物として、稀有な存在となっている。盧武鉉は、尊敬する人物として金九を毛沢東, リンカーンとともに挙げている。彼は通常韓国の極右翼やファシストたちから尊敬される。
日本の政治家の参拝
1999年、自自公連立政権の小沢一郎与党自由党党首は金九の墓を訪れ祈りを奉げている。総体の国内の反対世論にもかかわらず、参拝するのは異例的な姿を見せた。
批判される人物
軍事評論家の予備役大佐である池萬元(チ・マンウォン)社会発展システム研究所長は「金九は現代版に解釈すればウサマ・ビンラディンのような人間。国を経営できる人間ではない。実力が足りないながらも李承晩に嫉妬した人間」と評論している。2004年7月27日、ジャーナリストの金完燮は「偏狭な儒教思想に凝り固まった無知蒙昧な人物」「金九については生まれつきの殺人鬼だと思わずにはいられない」と評論して、ソウル高等検察庁に起訴された。
暗殺者のその後
金九暗殺犯・安斗煕(アン・ドゥフィ)は1996年、朴琦?によって自宅で殺害された。2001年9月には韓国で安斗煕が駐韓米軍防諜隊(CIC)要員であったという報道がなされた[民族時報 第955 (01.09.21)では、その可能性を否定しない資料という程度の記述である。以下の記事を参照。]
白凡人・金九暗殺者「安斗熙はCIC要員」 米公文書を発見「金九先生暗殺犯の安斗熙は米軍のスパイ」(朝鮮日報2001年9月4日)。
著書
金九の著書『白凡逸志』, 屠倭實記を残している。
* 自叙伝 『白凡逸志』(日本語訳:『白凡逸志』梶村秀樹訳、平凡社、1973年。ISBN 4256802347)
* 『屠倭實記』(日本政府と朝鮮総督府の高官テロ報告書, 1932年 上海刊)
紙幣
韓国銀行は2007年12月に2009年から流通を開始する100,000ウォン紙幣(最高額面)に、表に金九の肖像と1945年11月3日に大韓民国臨時政府の要人らと中華民国の重慶で撮影した記念写真など配したデザインを採用すると発表した。ただし2009年1月に発行計画は中止された。これは従来よりも10倍の高額紙幣を発行することに批判があったこともあるが、デザインにあった大東輿地図にオリジナルにない竹島(韓国名・独島)を入れていたこと、何よりも金九が南北統一政府の樹立を主張していたことから、保守系の李明博現政権が問題視し、見送られたとの指摘もある。
切手
韓国の普通切手のデザインとして1986年に450ウォン切手、1988年に550ウォン切手に肖像が登場している。
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