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thumbnail|right|280px|1938年(昭和13年)に日本で発売された「支那大地図」。この地図によれば、中華民国と満州国だけでなく、モンゴル人民共和国を「外蒙古」としてその範疇に加え、またソ連に割譲させられた唐努烏梁海(トゥヴァ)に入れている。また、いわゆる漢民族の居住地でない東トルキスタン(ウイグル)とチベット(地図では「西蔵」)も入っており、広範囲の地域名でもあった。
支那という言葉の語源は諸説あるが、明朝時代末期にこの地域にいたイタリア人イエズス会宣教師衛匡国(Martino Martini)による著作”Nuvus Atlas Sinensis”では、中原初の統一王朝秦(拼音: ''Qín'', 梵語: ''Thin''・''Chin'', ギリシャ語・ラテン語:''Sinae'')に由来するとされる。衛匡国によれば、この秦の呼称が周辺諸国に伝わったが、現在のインドで転訛してシナになったとしている。これが一般的な通説とされるが、戦前の日本の地理学者の藤田元春など反対説を主張している。その諸説によると交易品であった絹糸に由来するもの、民族名である「チャン族」あるいは、「インドから見て辺鄙で遠いところ」とに意からきたともいう。なお、このシナの発音が西洋に伝わり英語の"China"フランス語の"Chine"などの語源ともなったといわれている。紀元2世紀前後にはインドで中国を指して「チーナ・スターナ"China staana"」と呼んでいた。一方ギリシアでは紀元前後から中国をシナ(Θηνα)とよぶが、これは秦に由来する。ポルトガルでは大航海時代から現代まで一貫してChinaとよぶが、発音は日本とは少し異なり、シーナである。ギリシャ、ラテン圏では国名、地域名は女性形になることが多く、秦の国名はシーナとなる。
インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ"China staana"」を当時の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。そのため、「支那」はこの地域の当時の公用語からすれば外来語であり、当初は外国人からの呼称であったと言える。
thumbnail|right|180px|1900年に中国に設置された日本の郵便局で使用するために発行された菊花紋章のある5銭普通切手
日本において、「支那」の言葉が入ったのは、隋と同様に漢訳仏典を通じてであった。平安時代の高僧空海の詩文集「性霊集」に「支那」が用いられた例が確認できる。京都東福寺蔵の重要文化財にも「支那禅刹図式」(南宋作)がある。鎌倉時代には虎関師錬の元亨釈書・王臣伝論に「彼の支那は葱嶺の東」と見える。室町時代の僧万里集九の「山谷先生を祭る文」にも見える。江戸初期の卍元師蛮『本朝高僧伝』巻一「釈福亮伝」には「支那に入って嘉祥師に謁し」とある。更に江戸時代初期には世界の中にこの地域を位置づける場合に「支那」の呼称が用いられた例を見ることが出来る。江戸初期『西洋紀聞』はキリスト教が禁止されていた日本に布教目的で潜入して捕らえられたイタリア人シドッチに対して新井白石が行った尋問の記録であるが、シドッチの日本上陸(1708年(宝永5年))および翌年の尋問を1725年(享保10年)頃までに完成させたものであり、その中ではアジア、アメリカ、ヨーロッパなどと並べて「支那」の記述が発見できる。江戸中期の富永仲基『出定後語』や、江戸中期の僧大玄の『淨土頌義鈔探玄鈔』や、僧覚深『摩多羅私考』や、佐藤信淵が1823年(文政6年)に著した『混同秘策』でも「支那」が用いられている。
江戸後期には「支那」と同じく梵語から取った「China」などの訳語としても定着した。幕末の洋学者佐藤元萇は六大陸と対比して支那を論じる[長久保赤水「唐土歴代州郡沿革図」の安政2年佐藤元萇跋文]
に「世の論者ややもすれば輙ち曰く、支那と我と相い唇歯となすと、これ必ずしも然らず……六大洲の浩々たる、満清を継いで王たる者また何の姓なるを知らず」と言う。http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri08/ri08_01371/ri08_01371_p0043.jpg。幕末の英語辞書「増訂華英通語」の万延元年の福沢諭吉凡例では英語と中国語との対比で「支那」が使われている。特に明治期以降、歴代の王朝名(例:漢、唐、清)とは別に、地域的呼称、通時代・王朝的汎称としての、この地域の名称を定めることが必要であるという考え方が一般的となり、従来「漢」「唐」などで称していたものを「支那」と言い換えることが行われた(例:「漢文学」→「支那文学」)。
日本では、伝統的に黄河流域の国家に対し「唐、漢、唐土」の文字を用いて「とう、から、もろこし」等と読んできた。明治政府が清と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。学術分野では、伝統的には「漢」の文字を用いて「漢学」「漢文」等の呼称が用いられてきたが、明治中葉より、漢人の国家やその文化に対して「支那」が用いられるようになった。ただし「漢人」「漢民族」の定義は不確定であり学術的に確定しているわけではなかった。
日本は1876年以降、清国内に日本の郵便網を整備し郵便局(在中国郵便局)を設置し、これは欧米列強と同様に清国政府が近代的郵便制度が未整備であった為であるが、19世紀末に清国政府による大清郵政が創業してからも存続していた。当初は日本国内と同様に日本切手を現地通貨で販売していたが、価値の低い清国通貨で購入した切手を日本本土に送る投機が行われるようになった。そのため1900年以降は日本国内で使えなくするため加刷切手に切り替えた。この時の加刷切手に地域名として「支那」を用いている。これは欧米列強が中国で発行した切手が国号の"Qing"ではなく"China"(英米)を用いたのと同様であった。この切手もまた日本では支那は国家名ではなく地域名として用いられていたことを表わしている。
19世紀末まで、中国大陸は清朝(満洲族)の統治下にあり、明治の日本はこの国を清国と称し、その国民を清国人と呼んだ。清朝末期に共和主義運動が広まるにつれ、中国人共和主義者たちの間で、清国、清国人という呼称は「満清の臣下」を意味するという理解から、清にかわる、いまだ存在しない自分たちの共和国の呼称についての模索が開始された。また中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。
清の末期(19世紀末 - 1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷を超えた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある 。また、中華民国建国の父とされる孫文は1910年に「支那暗殺團」を設立している。
王朝や政権の変遷を超えた、国号としても使用可能な固有名詞の呼称のひとつとして古来の「支那」という呼称を選び取り、満洲族による清朝支配体制からの脱却を目指す革命家などの手で一時期広く使用された。日本の東京に留学していた宋教仁は機関誌の題目を「二十世紀之支那」としていた。また孫文(孫中山)の協力者であった日本人の梅屋庄吉が辛亥革命成功後に「支那共和国公認期成同盟会」を結成している。この時の額は広州にある孫中山記念館で保存されている。また日本政府も欧州列強に先立って中華民国の承認をしており、当初「支那」は同様に歴然として辱めた意がなかった。義和団の乱の前後に新聞記者として来日していたこともある狄平子は「支那という名称は恥じるに足らず、中華民国などの国号を用いるよりは広義ですぐれている」と主張していた。それによると仏典で支那の意は思慮深いというものであり、交易国家としての賛美の意であったというものであったという。
たとえばもっとも早期から反清蜂起を繰り返してきた共和主義革命家孫文の前半生を紹介した宮崎滔天の『三十三年之夢』に孫文がよせた前書きでは、中国の呼称として、いくつかの名称と並んで支那の呼称が使用されている。戦前は魯迅などの日本へ来る中国人留学生たちは、日本語の「支那」という呼称を拒絶しなかったが、日本ではそのように表現するのが常態化していたからである。
梁啓超は1901年に「中国史叙論」において「吾人がもっとも慙愧にたえないのは、我国には国名がないことである」とし唐や漢は王朝名、支那は外国人の使用する呼称、中国・中華は自尊自大の気味があるとしながら「やはり吾人の口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶことは撰びたい」と述べている。近代主権国家への性向をもつ政治運動で結集核となったのは、清朝というよりも「中国」であって、この時期に次第に国名として定着しつつあった。辛亥革命を経て成立した中華民国の国号について、日本政府は正式な国名を使用せず伊集院彦吉駐清公使の進言による「支那」を採用した。于紅によれば、これは近代日本の対中大陸政策を表徴するものであり、日中関係の不対等化を意味していたとする。日本政府は中国政府と締結する条約の文面など、正式呼称を用いることが不可欠な場合を除き、この共和国に対する呼称を「支那共和国」と称することを定めた。以上の結果、日本における「支那」という呼称は、以下の2つの概念に対する呼称として使用されることになった。
2.の「中華民国」という国家に対する呼称としては、後述のように1930年に日本に呼称を言い換えるように要請があったほか、すでに第二次世界大戦中、汪兆銘政権への配慮から「支那共和国」に代えて「中華民国」を用いるべきとされ、さらに1946年、改めて外務省より「中華民国」を用いるよう通達が出された。
辛亥革命以前の共和主義運動の中では、漢人民族主義や、清朝の領土のうち漢人の土地の部分(中国本部、チャイナ・プロパー)のみを領土とする国家を追求する主張もみられたが、1911年以降、実際に共和政権が樹立されるにあたっては、モンゴル、チベット、東トルキスタン、満洲などを含む、清朝の遺領をそのまま枠組みとする領域が領土として主張され、また「中国」という多民族国家がこの領域を単位として古来から一貫して存在してきたという歴史認識が採用されることになった。清朝を打倒して成立した中華民国は、「シナ」だけでなく、その周辺のモンゴル、チベット、東トルキスタン等もその領土として主張したため、厳密に言えば、支那(シナ)と中国は、領域も住人も、その範囲には著しい相違がある。中国では、シナとその周辺の諸地域、諸民族が古くから一体の「中国」を形成してきた、という歴史認識を採用したため、シナの部分だけを指す、王朝や政権の変遷を超えた、通時的な国号を別途に設けることはしなかった。
その結果、「中国」の一部分である漢民族の土地だけに対し、ことさら「王朝や政権の変遷を超えた国号としても使用可能な通時的な呼称」を別途つけることは行われなかった。これは中華思想において周辺世界は中華世界の辺境に過ぎず異民族「四夷」が跋扈する「化外の地」とみなしており、対等の国家ではありえなかった。そのため歴代皇帝が統治する王朝名は存在するが、その中華秩序による国家体制概念を指し示す国家名を必要としなかった。そのため、中国においては上記1.2.のうち、1.の用法で用いられる「支那」と置換可能な呼称も概念も作られることなく現在に至っている。
1913年(大正2年)6月、条約や国書を除いて中国を「支那」と呼称すると閣議決定した。また1930年(昭和5年)に中華民国中央政治会議による決議を受けて、中華民国外交部(外務省)が、英語による国号表記を”Republic of China(ROC)”とする一方で中文表記を「大中華民国」であるとし、日本政府に対し支那の呼称を使わないように申し入れてきた。その理由として「支那という言葉の意味は大変不明確で現在の中国とはなんら関係ない」というものであった。そのため10月31日「支那国号ノ呼称ニ関スル件」という閣議決定では、「これまでは外交文書で「中華民国」と書く必要のあるものを除いて通常文書では「清国」のことを「支那」と記載してきたが、当初から中華民国側は支那という呼称を好ましくないとしていたし、特に最近は中華民国の官僚や民衆が不満を表明することが多くなっているので、その理由の如何はさておいて、中華民国政府からの正式な申し入れはないけれども、今後は「支那国」ではなく「中華民国」と書くことにする。」と決定した。
thumbnail|right|280px|第二次上海事変勃発を報じた東京朝日新聞の紙面(1937年8月14日)。中華民国国府軍を「暴戻支那」と表現している。
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を端緒とする中国国内における戦い(日中戦争)について、日本政府は「今回の事変を支那事変と呼称する」と決定した。ここで戦争とせず事変としたのは宣戦布告によって戦時国際法に拘束されることを日華両国が望まなかったためである(宣戦布告した場合、中立国から武器を輸入することが出来なくなるなどの問題が起きるため)。
当時の日本では「支那」ないし「支那人」の呼称が一般的であったが、支那という言葉は、日清戦争以降、中国政府や中国人を非難・侮蔑するときにたびたびセットで使われた。このような表現としては「暴戻(ぼうれい)支那」や「暴支膺懲」等があった。戦時中の中国人に対する蔑称としては「チナ」「ポコペン」「チャンコロ」などがあった。
中華民国が連合国の一員となると、戦後、中華民国政府は戦勝国として日本に対し強い圧力をかけていた。これら国外の圧力から「支那」は差別語であるという事になり、1946年(昭和21年)6月13日公表(6月6日通達)の「支那の呼称を避けることに関する件」という外務次官通達が行われ、「中華民国の呼称に関する件」という外務省総務局長通達を公告した。これ以後、この次官の通達により、放送・出版物においては中国のことを支那と呼称することを自粛することになった。その理由として、中華民国の代表者から公式非公式に「支那」の字の使用をやめてほしいとの要求があったので、今後は理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使わないようにしたいとしている。
日本人が「支那」と呼んでいた事について、蒋介石中華民国総統は対日戦の最中の対日言論集のなかで「彼ら(日本人)は中国を支那と呼んでいる。この支那とはどういう意味であろうか。これは死にかかった人間の意である」と述べており[朝日新聞1952年12月30日朝刊]、中華民国指導者層には「支那」には侮蔑の意があると受け取っている者もいた。なお、漢字で「中国」と表記されるようになったが発音までは強制されなかったため日本語読みで「ちゅうごく」と呼ぶようになった。
そのため、当時大学にあった「支那哲学」といった教科名の変更が文部省(現在の文部科学省)から求められたほか、郵政省(現在の日本郵政)も国際郵便で旧「満洲国」地域は「中華民国東北」、「支那」「北支」「中支」「南支」と呼んでいた地域に「中華民国」と書いていなければ、郵便局では引き受けないと発表している。また、当時の吉田茂首相が国会答弁で「支那」と呼称した事に対し野党から批判を受けた事に対し、中国文学者として著名であった青木正児が「悪い名称ではなかったから、吉田茂首相が使うのは問題にしないでほしい」という事を朝日新聞に寄稿したところ、当時経済貿易新聞社主幹であった劉勝光は「日清戦争以後の教育方針が侮中国的であり「支那」という文字を見ると日本の軍閥・帝国主義を想起する」として、中国にはない単語であり日本人による著作以外には存在しないなどと批判した。この点につき加藤徹は「日本政府が『支那共和国』という独自の呼称にこだわったのは(中略)1930年までだった。以後は、公文書のなかで『中華民国』という国名を使うようになった。すでに第二次大戦中に、日本政府は、南京の中華民国政府(汪兆銘政権。日本と友好関係にあった。重慶の蒋介石政権とは別)の要請を受け、今後、段階的に『支那』という呼称をやめてゆくことを約束した。もし仮に、日本が第二次世界大戦で戦勝国となっても、『支那』は廃語となったろう」とする。
また、国交がなかった時期に中華人民共和国に対し日本では未承認国家ということで「中共」(中国共産党の意)といった略称が報道で使われていたが、同様である。なお略称で「中」とする場合は中華人民共和国を意味するが、「華」とする場合は台湾に逃れた中華民国政府を意味する。
現在の日本では、Microsoft Windowsに使用されているMS-IMEや、ATOKなど一部の日本語入力システム(ことえり2は除く)では、出荷時に「支那」という単語が辞書登録されておらず、登録をしないと「しな」を「支那」に漢字変換出来ない。手間を惜しまなければ毎回「し」支と「な」那をシフトキーで範囲指定し各自で変換させることは出来る。また読売新聞社が刊行した新聞紙面データを収めた「明治・大正・昭和の読売新聞」でデータベース検索する場合、原典の記事で「支那」、「支那人」、「北支」と表現している場合、固有名詞で「支那派遣軍」とある場合を除き、「中国」、「中国人」、「華北」と表示される。
一方で、学術的に漢字表記ではない「シナ」が現代でも用いられる場合が少なくない。言語学では、「シナ・チベット語族」などの用語が一般的に使われている。また、「中国」という呼称は、「シナとその周辺の諸地域からなる多民族国家の呼称」であって、漢民族だけの固有の土地、言語等に冠することはできない、英語の「チャイナ」、ドイツ語の「ヒーナ」、ラテン語の「シナエ」、ポルトガル語の「シナ」等に対応する日本語の呼称は「支那(シナ)」であるという立場から、いわゆる中国語に対して「支那語」「シナ語」と呼称する研究者もいる。
日本の歴史学会では明治時代から、「支那」は東アジア地区の、黄河、長江流域を主たる国土を実効的に支配する部族、王朝や政権の変遷を超えた、通時的な地域名称、国号として使用された。東京大学や京都大学に設けられた支那史専攻は、この地域国家の歴史を研究対象とする専攻である。日本の東洋史学界では、北アジアの遊牧民やチベット、中央アジア、西アジアは「塞外」というカテゴリーに括られ、支那史とは別範疇に属していた。
日本の東洋史学界では、第二次世界大戦以後、中華民国に対して理屈は抜きにして「支那」という呼称を使うべきでないという外務省通達が出た後も、長らく「支那」(シナ)という呼称を使い続ける研究者もいた。榎一雄は、その晩年に至るまで、一貫して自身の用語としては「支那」の用語を用い続けた。1992年に朝日新聞社から刊行された『地域からの世界史』シリーズの第6巻『内陸アジア』では、モンゴル史の専門家中見立夫が、上述の漢人国家と中国概念のズレについて考察したのち、
という文脈で「シナ」という語を使用している。
このように学術界における「支那(シナ)」の使用は、第一に、概念と用語に厳密であろうという学術的態度と、第二に、シナの部分だけを指す王朝や政権の変遷を超えた国号としても使用可能な固有名詞の呼称が存在しないこと等に起因するものであり、使用者側の政治的立場との関連性はみられない。
thumbnail|right|250px|ラーメン店の看板に掲げられた「支那そば」(岡山市北区)
中国からの輸入品の中にも「支那」を記した物がある。かつては支那刀や支那綿、支那大根など多くの呼称に用いられたが、現在では支那竹や支那そばなど定着しているものは少ない。また佐野実が経営するラーメンチェーン店「支那そばや」のように、政治的意図は全くなく「昔ながらのラーメン」といった意味合いで昭和ノスタルジアを醸し出すために、あえて用いる場合も少なからずある。なおラーメンは日本で発展した料理であり(⇒日本におけるラーメンの歴史参照)支那そばから多くの日本人は鶏ガラ醤油ベースの浅草ラーメン(来々軒)を想起する。
中国を指して「支那」もしくは「シナ」という単語をあえて用いる論者も存在している。渡部昇一などの右派言論人に多くいるが、それに当てはまらない論者もいる。たとえば田中克彦はオットー・メンヒェン=ヘルフェン?『トゥバ紀行』の日本語翻訳版を出版しているが、このなかであえて「シナ」を用いている。田中によれば[朝日新聞2003年6月3日朝刊]「国家と民族は厳密に区別すべき」として「言語は国家ではなく民族と結びつくものであり、中国といえば多民族国家としての略称であって、国民を表す中国人とシナは別々に使うべきである」と主張している。
また、田中は保守主義者の使う国家としての中国を国名を使わず「シナ」というのは誤用であると指摘している。これは「シナ」は王朝・政権の名を超えた通史的な呼称のひとつであるにもかかわらず、現代の国家に対し用いた場合には矛盾するため誤用になるわけである。また国民国家に対し使うことになるため「漢民族」だけでなく統治下にある少数民族もその範疇に入る。
日本で中国を「シナ」と表現することでもっとも有名な政治家として石原慎太郎がいる。石原は1999年3月10日の東京都知事選出馬表明の記者会見で「シナは、清が滅んで大陸が混乱した時、孫文がつくった言葉だ。孫文は台湾でも大陸でも国父として尊敬されている。なぜ日本人が使うと差別になるのか、さっぱりわからない」とその理由を語っている[中国新聞1999年3月11日朝刊『石原氏、中国を「シナ」と表現』]。これに対し朱建栄は「日本が中国を侵略した時に差別の言葉として使ったのは間違いない。外交上の配慮が少しでもあれば、当の中国が嫌がっている言葉で呼ぶことは考えられない」と批判した[中国新聞1999年3月11日朝刊『石原氏、中国を「シナ」と表現』]。また、加藤徹は「中国人が『支那』という日本語を違和感を感ずるのは、同じ漢字文化圏の国だからである。互いの自称を漢字で書けば、そのまま意味が通じるのに、日本人はわざわざ『支那共和国』という国名を作った。中国人はそこに、悪意と屈辱を感じたのだ。国どうしでも個人どうしでも、対等の関係なら、相手の自称を認めるのがマナーであろう」とする。その後も石原は現在に至るまで「シナ」を使い続けており、2002年2月の定例会見では「中国系ポータルサイトにはシナを含む名前の会社もあり、私が中国をシナと言うのに腹を立てた日本にいる中国人も抗議したのかわからないが、中国情報産業省は正式な調査でシナは尊称であると回答したそうだ」という趣旨の発言をしている。しかし実際にはそのような発表は行われておらず、中国大手ポータルサイトの新浪が2000年9月に発表したコメントを誤って引用したものとみられる。また石原は「支那」は不可であるが、「インドシナ」や「南シナ海」と使われるカタカナの「シナ」はよいとも発言している。
小林よしのりは自身の著書で「シナ」を使っているが著書内で「『シナ』は差別語ではない『秦』を語源とする『チャイナ』と同じ中国を歴史的に見る名称である」や「ここで統一された『シナ』には満州も、チベットも、ウイグルも、内モンゴルも、台湾も、含まれていない」(著書からの引用)としている。この為、中国に存在した王朝を「シナ王朝」と表現したりしている
ネット上でも中国に反感を持つ層が「シナ」を使う場合があり、NHKが女性国際戦犯法廷を報道した事に対し抗議メールがあったが、そのメールの多くは同法廷を『反日売国勢力と南北朝鮮・支那および欧米侮日メディアが結託した世界最大規模の反日集会』などと、直接参加していない中華人民共和国に対し「支那」を用いている。また言論界においても主に右派で使われることが多く、たとえば2008年のチベット騒乱を受けて発刊された西村幸祐編の『チベット大虐殺の真実?FREE TIBET!チベットを救え!』(オークラ出版)がある。この書籍では中国共産党政権によるチベット弾圧に批判的な論者による批判が掲載されているが、多くの論者が「シナ」を用いている。また日本会議メンバーや右翼思想を持つ者が参加した建国義勇軍が、新聞社や親中派の野中広務に弾丸と一緒に送りつけた犯行声明文では「支那、朝鮮の国益を守り、善良なる日本国民の嫌悪感、怒りを高めた」などと書いていた。そのため、これらの「シナ」を使う一部の論者は、中国共産党政権批判とセットとなっていることから、「中国」の呼称を用いたくないから使う傾向があるともいえる。他にもチベットやウイグルの独立を支援する人々や保守派や反中感情のある者では前述の小林の様に「中国」ではチベットやウイグル・台湾・満州・内モンゴルの人や土地が含まれるとして「シナ」を使う人もいる。
* 滋賀県草津市には支那町があるが、これは旧名を志那郷といい漢字表記が変わったもので中国とは関係ない。
* 評論家の八幡和郎は、著書の中で「支那といっても抗議される由縁はないはずだが、あえて相手の嫌がる呼称を使うこともない。それが大人の対応だ」と述べている。
* 2001年1月に当時の森喜朗首相が外遊先の南アフリカ共和国で地元日本人会の会合に出席した際、自らの生年を「支那事変の時」と表現した。それに対し当時野党民主党の党首だった鳩山由紀夫は「国家主義的な発想が頭にある」と批判したが、自由党党首の小沢一郎は言葉にはこだわらないとしたうえで「よく古い言葉がはいっているものだ」と揶揄した。これに対し福田康夫内閣官房長官は「戦前教育を受けているかもしれないが、特別な意味はない。私もうっかりすると使うかもしれない」と擁護した。
* 下中彌三郎編「東洋歴史大辞典」平凡社 1938年(1986年に臨川書店から再版)
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